「世界の結核対策への日本の貢献」
〜世界の公衆衛生に貢献した日本人先駆者たち: 次世代へのメッセージ〜 2002年12月6日/東京大学大学院
結核予防会国際部業務課 川越 貴史

 昨年12月6日(金),東京大学大学院国際地域保健学教室の主催により,本会島尾忠男顧問による「世界の結核対策への日本の貢献」と題した講演が行われた。5人の公衆衛生専門家による連続講演会の第1回であった。島尾顧問にとっては卒業以来,54年ぶりとなる母校での凱旋講演となった。結核予防会での40年以上にわたる様々なご経験を拝聴できたのは,非常に貴重な機会となった。以下,概要を報告する。

結核予防会への入会から日本の国際医療協力の黎明期へ
 1944年に推薦で東大医学部に進学した。大学時代,学生の同好会である結核研究会に入り,群馬県での農村実習を通じて公衆衛生の面白さに開眼した。研究会の先輩が第一健康相談所にいたこともあり,1949年にインターン終了後直ちに結核予防会に入会した。入会間もなく自身の結核が悪化していることが判明し,右肺切除の大手術を経験し,開発されたばかりの薬を使用して3年近い療養生活を送った。結核の苦しみを自ら体験したことは,その後の医師としてのあり方に強い影響を与え,少しでも患者の役に立てるならと現在でも週に1回の外来診療を続けていることにつながっている。
 結核予防会総裁(当時)秩父宮妃殿下が日本スウェーデン協会の名誉総裁だったこともあり,1955年スウェーデンへ1年間留学し,初めて国際医療を肌で実感することになった。帰国の船の中では,スウェーデン語の肺結核理学療法の本を日本語に翻訳し,日本に初めて結核の理学療法を紹介した。
 1936年古賀良彦先生による間接投影法開発を皮切りに,1953年第1回結核実態調査実施(WHO〔世界保健機関〕の学術誌に掲載され,のちに世界のモデルとなる),1957年BCG凍結乾燥ワクチン大量生産技術の開発(のちに世界標準となる),同年梅沢浜夫博士によるカナマイシンの開発(日本人の開発した唯一の抗結核薬),被曝線量が少ないX線カメラの開発など,日本の結核対策技術は目覚しい進歩を遂げ,世界から認められはじめた。1953年に隈部結核研究所長がWHO予防接種委員に就任するなど,この頃から日本人職員はほとんどいなかったWHOから職員派遣を要請されることになった。

1965年,結核研究所国際研修にてレントゲン所見検討
途上国での結核対策
 1954年コロンボ計画に加盟した日本は被援助国から援助国になり,1960年には中近東アフリカ技術協力でアラブ連合共和国(現エジプト,シリア)へ専門家として派遣された。また1963年から結核予防会は国際研修を開始した。当初国際研修では,それまで成功していた日本方式の結核対策を中心としていたが,自身の途上国での経験,ネパールでの岩村昇医師の体験,研修生との交流を通じ,日本方式は途上国では通用しないことを実感し,WHO方式の結核対策を教える研修に転換した。
 1966年にはIUAT(国際結核予防連合,現IUATLD)第5回東部地域会議を東京で開催し,以降数々の国際会議を成功させることにより世界の日本への認識が改まるようになった。そのため1974年より世界中から結核対策技術協力の要請が相次いだ。世界各国での技術協力を通して,できることとできないことを相手側との交渉で明確にすること,国際研修による人材ネットワークが非常に有効であること,各国の実情に合わせた協力のあり方があるなどの教訓を学んだ。

1982年,IUATLD世界会議(ブエノスアイレス)

IUAT,WHO,日米医学協力計画への協力
 1981〜85年のIUAT議長時代にはフォークランド紛争や中国・台湾対立の影響があり,政治的な問題が会議に持ち込まれたりもしたが,各国のお国柄や立場の理解・配慮の重要性を学んだ。1987〜90年にはWHOの執行理事に就任した。1988年中嶋宏博士がWHO事務局長に就任,1989年には古知新博士がWHO結核対策課長に就任し,1991年にWHOで結核対策強化の決議が採択され,1993年に結核非常事態宣言,1995年にはDOTS戦略が提唱された。WHO執行理事経験の教訓は,専門の立場を離れて運営に協力する建前,専門領域や自国の過度な主張をあまりしてはいけないのだが,結核対策を自ら主張せざるを得ないほど結核対策への無関心を痛感したこと,結核を優先課題とするには人材(日本人職員の増加)・時流(エイズ流行による結核の増加,DOTS戦略の確立)・経済支援(日本政府による拠出金)が必要だということであった。
 また1965年からは日米共同でアジアに多い疾病を研究する日米医学協力計画に参加し,1993〜2001年には同計画合同委員会日本側委員長を経験した。長い協力関係から率直な意見の交換が可能になり,日本側がイニシアティブを取れる領域も出てきた。

2001年,国連本部前にて
結核予防会の国際協力活動
 国際研修で得られた人間関係(2002年で40周年を迎え,修了生は1,700名以上(エイズコース含む))は日本の宝であり,結核予防会の誇るべき技術協力である。結核予防会として,1993年から国際移動セミナー,複十字シール募金による独自のプロジェクト(ネパール・インドネシア・ミャンマー),婦人会のスタディツアーを開始した。良い人間関係があれば,比較的少ない経費で良いモデル事業の実施が可能である。またこれらの活動は事務職員の国際性の獲得,複十字シール募金の普及・啓発にも役立っている。

国際協力は物から人へ
 結核領域での協力は,日本の国際協力全体のパイオニアである。試行錯誤を繰り返しながらも,結核予防会歴代のリーダーの頭の切り替えが早かったおかげで,大きな流れは健全に発展してきた。協力成功の大きな鍵は正しい方向性の理解,相手側人材の養成と誠意である。日本が世界最長寿国となった要因は,訓練され熱意を持った保健医療の優れた人材と組織のおかげである。人材養成には時間がかかるが,その後の効果が非常に大きい。ODAは物から人へ転換すべきであると助言したい。

 誌面の都合上,2時間にわたる講演を詳細にはご報告できなかったが,詳細な内容は「公衆衛生(2003年4月号)」(医学書院)に掲載される予定である。

お知らせ:島尾顧問の自叙伝「Living with TB for fifty years−結核と歩んで五十年」が,結核予防会より3月下旬に発行される予定です。


updated 03/06/05